睡蓮*UTOPIA


2006年6月18日――千葉県東京湾沿いエリア28にて。


ザザーン、ザザーンと行きかう海辺に、何羽かのウミネコが空を遊泳していた。砂浜に押し寄せてくる波はいまだ冷たく、時折流れ着いた木々を砂浜に打ち上げてはその姿を海原に押し戻していく。千葉県の東京湾沿いにぽっかりと出現する人工的なプログラム開催地――エリア28のほうにも潮の影響で流木やゴミが打ち上げられることが多い。それでもこうして奇麗な状況に保たれているのは、数日後、ここでまたプログラムが開催される予定だからか。
「わっ、波高ッ! 風強ッ!」
その波打ち際でひとり、長ズボンを膝まで捲り上げ、スニーカーで勇敢にも波に立ち向かおうとしている男がいた。彼の名は青沼聖。今現在、プログラム担当教官を生業としている。

「夏葉サーン! 塩臭いっすよ! 海!」
彼ももうかれこれ34近くになるというのに、元から幼い顔つきと小柄な体躯をしていたからか、ようやく大人に格上げされたと言えるくらいになってきた。そんな青沼に呼ばれた夏葉翔悟は「うるせーな、もう少し大人になりやがれ」と苦々しく返しつつ、タバコに火をつける。が、風が強く煙が彼自身を襲った。青沼が歳をとれば夏葉も同じように歳をとる。昔ながらの茶髪は変わらないといえど、全体的に瑞々しさを失っているように見える。この歳になっても、茶髪とヘビースモーカー、目の下のクマは変わらずだった。
「大人になっても子供心を忘れないでいろって言ったの、正真正銘夏葉サンっすよ? あ、見てくださいよ、石! オレ、水切り得意だったんっすよね」
青沼は水辺に打ち上げられた平たい石を取り上げて、手首のスナップを利かせつつ思いっきり海に向かって投げる。石は勢いよく空を切り、パシャン、パシャン、パシャン、パシャン、と4回跳ねた。

「あら、4回。小さい頃は10回くらい出来たんですけど……」
悔しそうにすねて足元の砂を蹴り上げる。リベンジを目論むつもりか、また手ごろな石を探しはじめた。そんな青沼を見て夏葉は手をポケットに入れたままハァとため息をつき、「神奈川の山奥が実家のおめーにゃ所詮海での水切りはできねーって話だよ。年相応を考えろ」と呟いた。口にくわえていたタバコを手に取り、それから紫煙をくゆらす。煙は風下の海へと流れていった。今日は海のほうに風が流れている。煙も飛ぶが髪の毛もばさばさと揺れた。
「うわ、何すかそれ! だって夏葉さんがオレぐらいのとき、夏葉さん破天荒もいいところでしたよ? オレが部下だったらソッコーで辞職してますね」
眉間にしわを寄せてむっとした表情を作ると、青沼はタバコをふかす夏葉のほうを指差してそう言った。それに対し夏葉は軽くあしらう態度で「……ふっ、俺は過去を振り返らない男だぜ?」とまるで相手にしなかった。
「そうやって三十路後半から逃げる。40歳代って何て言うんすか? よそじ?」
「てめっ!! 俺が一番気にしてることをそうやってあっさり!!」
今年37となる彼は、少し健康不良で気になり始めた目の下のくまにしわを深く刻んで青沼にドロップキックを食らわせた。その威力は歳を取っても変わらず、脇腹にクリーンヒットした青沼はうめきながら砂浜にひざまずいた。
「四捨五入したら40じゃないっすかもう……!」
脇腹を押えながら涙目のまま夏葉に訴えかけるが、門前払いよろしく「37を切り上げて40にする四捨五入の仕方なんて俺は断固として認めねえ!!」と反論が返ってきた。


それ程強くないキックのはずだったが、無性に骨がずきずきとするのに気付いた。青沼は大きく腕を伸ばして脇腹を伸ばすが、ズキンと一度大きく痛みを伴った。そういえば最近運動なんてろくにしてないよなぁ、と自分の悪い生活習慣を振り返る。担当教官の仕事だけでは食べていけないので、日々フリーターとしてバイトを入れている。夏葉のように地方公務員の資格を取ればいくらか安定した収入が入ってくるだろうが、正規にプログラム担当教官を生業としている彼にとって、そう言った安定した就職はむしろ面倒な重荷にしかならなかった。また、もう30を過ぎた人間をアルバイトで雇ってくれる裕福な業者のほうが見つけるのが困難である。そう言った状況だから、日常の生活はいつも安定したサイクルを紡ぎだせずにいる。

「あーあ、歳食っちゃいましたね、オレら」
加齢による運動不足から、いつも受け慣れてきていたはずの夏葉のドロップキックもまともに受身を取れなくなってきていることに改めて気付かされた。
「俺はいつまでも永遠の20代だがな」
「まったく……いつまでたっても頑固なんだから……」
「何か言ったか?!」
「言ってませーん!」
墓穴を掘ったか、必死になって弁解する。


彼ら2人が最後に共同で担当に当たった千葉県高原市立第五中学校3年A組のプログラム終了から7年という年月は流れ、そしてまた2人はその会場となったエリア28にやってきた。理由はもちろん、このプログラムに関係がある。
夏葉はジャケットのポケットから新聞紙の切抜きを取り出して視線を落とした。風が吹きあげてベラベラとめくれるので両手でおさえた。
「高原惨殺事件犯人、蓮川司の死刑が執行される」
新聞の一面の端のほうに中くらいの文字で印字されていた見出しを読み上げた。一時はどの新聞を見ても一面の、しかも一番大きな見出しで書いてあったというのに、最後はこんなにも薄いものになってしまうのかと思うくらい質素な記事だった。
「あ、新聞っすか? 俺も見たっすよ。刑確定から3年そこそこで執行ですもんね。他から比べたら早いほうなんじゃないっすか?」
「だな。それによ、死刑執行の日が4月30日とか……ハハッ、皮肉だよな」
小さな文字でつらつらと並べられている文章の中に、死刑執行日が書いてあった。4月30日、思い当たる節がある人は思いつく日だ。だが青沼には皆目見当がつかないらしく、きょとんとした表情で首をかしげた。その子供のようなつらに夏葉はため息をついて、自身の茶髪をかき上げた。
「ばーか、4月30日はな、ヒトラーが自殺した日だよ」
大きく息を吸ってタバコの煙を肺に入れた。馬鹿らしい、そんなことを思いながら一息で吐き出す。

そう、1945年4月30日は、ドイツの指揮官の頭であったアドルフ・ヒトラーが拳銃自殺をした日だった。それと同じ日に死刑執行という事は、彼女は憧れていた人物と同じ日に死んだという事になる。さすがの青沼もそこまで察しがついたようで、偶然っすかねと尋ねた。
「さあ。法務のお偉い様に聞いてみればいいだろ?」
――そんなこと、俺が一番聞きたい。
海風が少しおさまった頃合を見計らって、夏葉はライターを取り出す。ボッと一番強い火を立てると、新聞記事に火を移した。ちりちりと焼けていく新聞記事が、丸く歪んでくる。夏葉も青沼も、その灰になって飛んでいく新聞記事を黙って見つめ続けていた。


「新聞といえば、蓮川さんの武器の密輸ルートも摘発されたっていつか書いてあったっすね」
「ああ、犯行に使用されたクルツとCz75だろ? 俺、モデルガンでしかクルツなんてサブマシンガン見たことねえよ。えーっと、なんだっけ、名前忘れたけどあいつの家の近くにすんでたドイツ人留学生」
「ミハエル・エアハルトって人っすよ! 蓮川さんにヒトラーの我が闘争を訳して渡したって言う例の人っすね」
青沼が思い出した人物は、司の行動論の確立に影響を与えた重要人物の一人、ミハエル・エアハルトだった。司が武器の入手ルートを黙認していたにもかかわらず、彼女の死刑が執行されてからほぼ数日後に警察が密輸ルートを洗い出し、エアハルトにたどり着いた。名目上はドイツ人留学生だが、実際のところはドイツ経由で銃器を密輸入し、暴力団などに売りさばいていた、ということが警察のほうから発表されたこと。今回犯行に使われたドイツ製のクルツも、チェコスロバキア製のCz75も両方エアハルトから入手したものに間違いなかった。現在エアハルトは拘置所に入れられ、ドイツ本国との協定のもとに法で裁かれようとしている。おそらく本国強制送還だろう。

「まぁまぁ……その、ミハエル・エアハルトだっけ? そいつはずいぶん大層な物をあいつに与えたよな。ある意味キーパーソンって奴?」
「彼にもらった我が闘争によって思想が確立して、彼に横流ししてもらった凶器で復讐を確立した……蓮川さんが取調べで何も言わなかったのは、彼のことを庇ってたからなんすね」
「まあな。あいつのあの性格があるのも、半分はそのエアハルトのおかげだし。蓮川なりの思いやりって奴? 逮捕された今になっちゃ無駄骨だったがなぁ」
苦笑を交えた視線を青沼と交わしたあと、そっと海のほうを見た。対岸のほう(つまり、東京と神奈川の境目)にある工業地帯が見えた。

「そういやよ、俺、アイツが死ぬ1年ぐらい前に……面会にいったんだ」
罪を独白するかのようにボソリと呟いた。
「え?! 何でそのとき言ってくれなかったんすか?!」
「面倒だったから」
「ああだいたいそんな答えが返ってくるって思ってましたよ。で、どうでした? 蓮川さん」
「んあ? ああ、まあ……孤独だとかずっと一人だったとか……たいそうなことぬかしてる割にはよ、寂しかったんだろうな、独房生活が。俺が着たらすっげー勢いで喋るの」
「先生に会えて嬉しかったんじゃないっすか?」ケラケラとからかいながら青沼は目を細めて笑う。惨殺犯も夏葉先生には弱いって奴っすか?と付け加えた。
「さぁ……どうだかな。俺の顔見るとプログラムの事思い出すからもう二度と来ないで―って言ってた。お前はそんな弱い人間だったか? ってカマかけてやったら訂正しやがったがな! 俺の勝ち!」
「ハハ……すっごぉーく大人気ない……こんな上司を持ってオレはいろんな意味で幸せっすよ……」
青沼の発言に対するこれといった突っ込みもなく、しばらく夏葉は黙り込んだ。ザザーンと行き来する波の音と塩のにおいが感覚神経を苛める。青沼は足元の流木を拾い上げ、海に向かって思いっきり投げた。


「なあ、青沼。お前さ、蓮川のこと……神だと思うか? 化け物だと思うか?」
あまりに唐突な質問だったので青沼は目をぱちくりさせて彼のほうを振り向いた。神か化け物か、この二つの単語はプログラム中何度も盗聴記録に残されたキーワードに値する言葉だ。アドルフ・ヒトラーのように敵のいない理想郷を創立し、新たな神になろうとした彼女。しかしそのあまりにも残酷なほどの横暴さに周囲からは化け物と呼ばれた。しかし青沼は考えるような素振りも見せず、きょとんとした顔つきのままあっさりと呟くように答えた。
「やだなあ夏葉サン、蓮川さんは人間ですよ?」
今度は夏葉が目を丸くしてきょとんとする番だったようだ。さもそれが当たり前だといわんばかりにさらっと言ってのけた青沼に、今では笑いすらこぼれてくる。彼はニヤリと笑みの形に口を吊り上げ、ふっと笑う。
「人間だからこうやって法で裁かれて死刑になったんすよ? もし化け物だったら法廷は経由しませんからね」
そっか、人間か。そうだよな、アイツは人間だよな――そればっかり繰り返し呟くと夏葉は笑ったまま海のほうへ身体を向けた。
高い空、灰色の空が一面を覆っている。その曇色キャンパスに雄飛するのは何羽かのウミネコだった。それらが自由に飛ぶのを見て、彼はため息をついた。
『お前は人間なんだよ』とたった一言言っていれば、彼女の気持ちも少しは変わったかもしれないのに。後悔しても遅いのは分かっていたが、自分が彼女以上に不器用だったことを恥じ、心の中で謝罪した。


「……夏葉サン、忘れないでくださいね。“ここ”で彼女の野望のために殺された人はたくさんいるんすから……」
「バーカ、忘れるもんか……忘れられねえよ。事実上俺の最後の受け持ったプログラムだし」
脳裏には次々と懐かしい顔ぶれが出てくる。他校との横暴で卒業間近に自宅謹慎を喰らった藤原優真。サッカー推薦だからと言って余裕ぶっていたが成績表には体育以外アヒルとポッキーしか並ばなかった市村翼。常にローズマリィーと名づけた狐の手にはめる人形と共にいた男好きの土屋若菜。クラスの学級委員で何だかんだと言ってもクラスをまとめていた望月千鶴。授業に参加しないのになぜかすごく頭がいい工藤依月。女子の割には一人称が俺の横暴者である遠藤雅美――
「面白い奴らだったねえ……俺のこと完全ナメてたし。散々俺のこと三十路三十路言いやがってよー、俺はまだ29だって言ってるのに四捨五入しやがってあのクソガキら。あいつらも……生きてりゃ23,4か」
「もう10年近くたつんすね……」
「ああ。早いな」
「早いっすね……」


おいしょっと、と年寄り臭く大儀そうに腰を曲げ、謎のベニヤ板の箱を持ち上げた。
「何すか? その箱」
「骨壷だよ、骨壷」
「骨壷? ……蓮川さんの、っすか?」
「うむ。処刑される2ヶ月くらい前かねえ。俺が持っていった本が返ってきてな。その間に手紙が挟まってたんだよ」
「手紙っすか?」
「手紙って言うより……まあ、遺書だ。何か訳わかんねー文字の羅列が書かれた手紙が一枚。それからもう一枚、こっちはまともな遺書だった」
「なんて書いてありました?」
「蓮川家の財産は全て赤十字団体に寄付すること。処刑された後の骨は、砕いてエリア28の海に投げること。それから借りた本と内職で稼いだわずかなお金は返します、だと」
「へえ! 蓮川さんの財産っすか? 確かお父さんの遺言によると、一番長生きした人間が全額受け取るってことになってたっすよね。皆亡くなったから、蓮川さんのところに入ったんすか?」
「そんなところだろうな。これを弁護士に見せろって書いてあったから、わざわざ出向いてやったよ。したら弁護士も分かっててくれたらしくてな。すぐに手続きに入ったよ。あとはあっちで勝手にやってくれた」

「……いくらぐらいになるんすかね?」
「一人当たり億単位」
「ひっ……ひとりあたり……それが全部独り占めできるんすから、遊んで暮らせるっすね」
「一生遊んだっておつりが来るな」
骨壷の白いふたを開け、風向きを確認してツボをベニヤ板の箱から取り出し、傾けた。すると白いツボからさらさらと細かい粒子が風に向かって海のほうへと流れていく。ちょうど渡り鳥が一匹とも列からそれず遠い地まで行くように、骨を砕いた粉は一筋の線になって海のほうへと消えていった。黒ずんだ海に白い粒子が消えていくその光景が、あまりに不釣合いに見えた。
「ずいぶん細かい粒子に砕いたんすね」
「だってあいつが欠片も残さず処分しろって言うから」
面倒なことを頼まれたような嫌そうな口調の割には顔は未だに笑っていて、それでもどこか、やはり……哀しそうだった。
骨壷の中身が全て流れたのを確認すると、夏葉はそれを高々と上げ、思いっきり砂浜に叩きつけた。ばりんっ、と荒く割れると、押し寄せてきた波に飲まれて沖合いへと吸い込まれていく。行ったり来たりを繰り返し、やがては海の黒に溶け込んで、沈んでいった。


「けーるぞ、青沼ァ」
「えー? もうっすか?」
「あー、何か無性に焼肉食いてー。焼肉行くぞコラー」
「また人の話をあっさりスルーするんだから……もう! ……焼肉のオススメの店は東京にありますよ!」
「おっし! 今日は焼肉じゃー!! リッチに行くぜ! 飲むぞ飲むぞォー!」
「あ、ちょ、夏葉サン! 車あっちっすよ!? どこ行くんすか!夏葉サン!」


ザザーン、ザザーン

慌てて車をとりにいった青沼の後姿を見つめて、それから夏葉翔悟は振り返った。先ほど蓮川司の遺骨をまいた場所の辺りを視界に納める。鈍く光る漆黒の黒真珠のように、海は太陽の光を反射させていた。
俺としたことが。お前が不器用だってくらい、知ってるつもりだったんだがな。虐げられて何もかも奪われたまま育ったから、何がフツウか分からなかったんだよな。高校入る前の調査書だって全部俺が書いたのに、どうやらまだ書き忘れがあったみたいだ。


彼は片手をあげて伸ばす。
「あばよ、哀れな独裁者」
――もう、生まれ変わんなくてもいいからな……

風が半そでのパーカーに風を通した。生ぬるくて、少し居心地が悪い。しかし何もかもを一度に吹き飛ばしてくれるような、強風だった。タバコの灰が風下へ飛んでいく。



こうして、彼女は永遠の眠りについた。
彼女の戦争――名誉殺人――はすべて、終焉を迎えたのだから……。





存在理由に花束を







  END











あとがき。



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