最期*Blank


2006年初春。逮捕されて死刑判決を受けてから3年弱が過ぎた。


コンクリートで囲まれた独房ではいつも気温は一定に保たれ、加えて冷房がきいているのでかなり居心地がいい。運動の時間が設けられているが、春の日差しがまぶしい外に好き好んで出ようとはしなかった。どうやらそれも許されるらしく、蓮川司はここ数週間一度も外に出ていない引きこもり生活を送っていた。
暇な時間を持て余し、読んだ本を記録し続けている大学ノートもついに10冊目に入った。刑務所にいる長い日々、模範的な生活をしているからか、刑務所内で与えられる“階級”は一番上の一級に及び、今ではそのおかげで本も自由に取り寄せられるし、手紙にたいする制限も無くなった。厳しい刑務官の目もなければ、細かいお小言もない。

あまりにも暇だったので一日で読み終わるような短編から、2週間ほどかかってやっと読み切れるような長編まで、とにかく色々読んでみた。だいたいこういった本を差し入れしてくれるのは司の弁護士だったあの七三男かもしくは夏葉翔悟だ。自費で賄っているものもあれば、地元の図書館で借りてきたらしいものもある(特にそれは夏葉の本に多い)。大概は司が読みたそうなものを選んでくるが、本の後ろのほうにある別の本の紹介を見て司が注文するときもある。
本を読んでいるのは、死ぬまでの時間潰しでしかなかった。実際読んだものからなにかを教わろうだとか、感動を体験しようだとかいうことには一切興味がなかった。むしろ、受け取る感情が欠落していた。
今日も彼女はむさぼるように本を読んでいた。右から左に抜けていく本の内容を簡潔にノートに書きまとめ、何とか自分自身が確かに読んだ、というはっきりとした証明を残そうとしていた。
とりわけ最近一番こっているものは聖書だった。高校1年生のときに世界史を勉強し、その際に聖書の生まれについても学んだ。少し、興味があったのだがあいにくキリスト教徒ではないためなかなか聖書は手に入らなかった。こちらは弁護士に頼んで買ってきてもらったものだ。地球上の大半を占める人間が神と崇めるイエスキリストは、いったいどのような人物で、どんなことをしてきたのか。本当の『神』は、どんな偉業を成し遂げてきたのか、非常に興味があった。ただ、神になりきれなかった自分のことは置いといて。

いくらか楽な生活をしているといえど、毎朝8時に回ってくる刑務官が死刑執行の知らせを運んでくるかもしれないので、いつも朝が憂鬱だった。どうやらサイン一つで人を殺せる不思議な役職の法務官長が死刑執行所にサインを書くことを渋っているらしく、なかなか司の死刑が執行されなかった。それがもう3年も続くものだから、だんだんと慣れて来て、そろそろ朝も平素に過ごせるように身体が慣れてきたところだった。


そんな日だった。
朝から珍しく湿気の多いどんよりした空気で、起床時間通りに起きるのさえ苦痛だったその日。何かいつもと違う雰囲気に司はぞっとした。
そして朝、刑務間の巡回が始まった。今日か今日かと司は刑務官の靴音に耳を傾ける。そして、裁判が始まると告げられたあの日のように唐突にドアからノック音がした。裁判が終わり判決が下った今となっては――ノックの音が示すものは唯一つしかない。ついにあの日がやってきたのだ。


「死刑囚833号、死刑執行だ」


鉄製でかなりの厚さがある扉が開き、看守がやってきては廊下を指差した。司は読み掛けの本にしおりを挟む事なく、立ち上がって灰色の囚人服のホコリを軽く叩いた。それから生気のない瞳で狭い部屋を一望すると、振り向いて看守に両手を差し出した。カシャン、と手錠が骨と皮しかない細い手首にはまった。
手錠に結わえ付けられた紐を握り、その看守は司の前を歩く。どこから現れたのか、別の3人の看守が司の両脇と背後を固めた。まだ正式には言い渡されていないがこの雰囲気だとまず間違いなく――ちらりと前を歩く看守の大きな背中を見上げた。紺色の高い壁が、越えられない必然を物語っている。
廊下を歩き続けるととある講堂に出る。2ヶ月に一度くらいこの講堂でお偉い様の演説を聞くことがあるのだ。誰もが等しく耳を塞ぎ、真面目な姿勢で聞いているのはせいぜい司くらいだった。
講堂の扉は既に開かれていて、それに吸い込まれるかのように一行の足は動いた。講堂の演台には口髭を蓄えた初老の男性が立っていて、彼もまた司の周りを囲んでいる看守と同じ紺色の制服を身につけていた。


「死刑囚833号、蓮川司はここへ」
一段視線が高い看守長を見つめる。看守長はすぐに視線を手元の紙に落とし、口を開いた。
「死刑囚の処刑を許可する。執行日は2006年4月30日午前9時。法務長田中栄三」
読み終わるのとほぼ同時に司の両脇を看守たちが掴みにかかる。暴れないようにとの対策のようだが、司にはそんなもの必要無かった。

――4月30日……か。ずいぶんと皮肉な日に死刑が執行されるのね。
ふと、先刻まで読み老けていた聖書を思い出した。神はユダに裏切られて処刑されたあと、一度だけ蘇った。キリストの復活――しかし復活祭は司にはなさそうだった。しかしキリスト復活の奇跡よりも更に上を行く奇跡が、この日付にあったかもしれない。別に世界を揺るがすような奇跡でもないが。

彼女は母親という心を開ける人間が死んで以来、幼なじみにも見せることが無くなった人間味あふれる笑顔を浮かべて、ゆっくりと頭を下げた。それから看守に連れられるまま扉を出て、今来た方と別の方に曲がった。
黒ずんだ赤いビロードをゆっくり歩き、そのビロードが途切れたくらいに鉄のドアがあった。あの世への扉は自分で開けろと言わんばかりに看守は顎で扉をしゃくるだけで何も言わない。それとなく感じ取った彼女は両手で扉のドアノブを回した。
扉を開けると一旦外に繋がり、数十メートル先にまた扉があるのが見えた。刑務所の離れのように孤立したその建物から、黒い手が伸びてきたように見えたのは気のせいか。それでも迷いなく真っ直ぐ、司はそちらへ向かっていく。ノイズ交じりの黒い手が、例え司のことを抱擁しても、彼女は微動だにしないだろう。何故ならこうなる覚悟は始めからしていたのだから。
離れのドアに手をかける。ギイ、もうしばらく誰も使ってないような重い金属音が鼓膜を引っ掻くように響いた。中には既に紺色の制服を着た看守たちが待っていた。あまりに紺色ばかりだから、喪服の色は紺が常識なのかという錯覚にさえ陥る。


「こちらへ」
手招きされたほうには噂の13階段があった。とりあえずその13階段を昇るとその先に2階があるらしく、何か神々しいオーラが溢れ出ている。先頭を歩いていた看守のみが司の手錠の紐を引いて2階へ上がる。しかしいざ歩いてみると13階段とは普通の階段で、この建物もプレハブ小屋にしか過ぎなかったようだ。普通の2階建ての部屋のように思える。
「失礼」
看守は階段を上がったところで黒い目隠しを取り出した。どうやらこれを付けるぞとのことだ。手錠が一旦外され、前で拘束されていた手が今度は後ろで繋がれる。目隠しをされる前に横目でちらりと形状を見やった。中壁のひとつもない、ただっぴろい2階の中央を仕切るのは鉄格子。その向こうには白くて太い紐が垂れ下がっていて、1メートル四方ぐらいの四角い線がその下に書かれていた。司は視線を戻して目をつむった。ふわとなにかが目を覆い、それから頭の後ろでギュッと締め付けられる感覚がした。
「こっちだ」
背中を押され歩き始める。視覚は奪われ、もはや聴覚でしか辺りが分からない。目隠しする前に横目で見た太い絞首用の白い紐を思い出す。後にあれが首にまかれ、スイッチを押し床を抜かれて始めて、司の処刑が終わる――死へのカウントダウンが始まった。
「止まれ」
指示されたとおりに足を止め、顎をひく。何か耳元で音がしたかと思うと、首に違和感を感じた。司の命を吸い上げる紐がついにセットポジションについたというわけだった。
人の気配が消え、のちにガシャンという音が聞こえた。中央を仕切る鉄格子が締まった音だ。ちなみに司には見えていないが、鉄格子のところに黒幕が下りる。これにより処刑の瞬間を看守たちが直接見ることはない。


「何も信仰していなかったな?」
少し遠くからそんな問い掛けが飛んできた。この刑務所に収容された頃から教誨師によってキリスト教などの信教を持つことを積極的に勧められてきたが司は一切を断って来ていた。
なぜなら――「ええ、そうね。だって……私が神だから」ニヤリ、そうやって口元を歪めたのにどこか自嘲した笑いになっていた。極力思い出したくないのに自動的に脳裏に浮かんできたプログラムの記憶。自分と神としてクラスメートを次から次へと殺していった事実。
――『私はアドルフ・ヒトラー。死と全能を司る、神』
あの時から、果たして自分は少しでもヒトラーに近づけただろうか?
どこかに置いたまま行方知れずの我が闘争を真っ暗な視界に映し出してみる。あの当時は、それが全てだった。それしかないと思っていた。ユダヤ人を滅ぼすことが――それが正義であり、そうすることだけが天命だと。人を殺すのは、来るべき大義のための小さな犠牲にしか過ぎない。そもそもその大義――蓮川の血への復讐――のためにプログラムに優勝しようと思ったのだ。そしてプログラムに優勝した。それからローカルテレビで放送される優勝者用のビデオにあえて挑発的な態度を取ったり、血塗られた制服で卒業式に見せ付けのように出席したのも、全ては大義のためであり、その他の何ものでもない。
『味方を殺した敵を殺して、何が悪い?』。そう信じていた。

ユダヤ人を抹殺すること、蓮川家を滅ぼすこと、それらを執行することに従事する自分が世界で一番正しい人間だと思ってきた。そう、確かに稚拙で主観的な行動だったかもしれない。夏葉翔悟が言っていた通り、回りくどいことを言っておきながらもそれはただの正当化にしか過ぎなかっただけかもしれない。それでも、そうするしかなかった。兄たちを殺したり、プログラムの優勝に対して後悔はしていない。ただ、ほんの少し残された良心の欠片ではもっと別な方法でそれらをクリアできたのでは?と思う。
そうは言ってももう取り返しのつかないこの状況。彼女は早く裁かれたかった。法による自殺――夏葉がそう言うならそれであってるのだろう。法による自殺を早いところ執行して欲しかった。自分が死んで初めて、蓮川の血がこの世から消えるのだから。死ななければ本当の終わりは来ない。


「お願いがあるの。最後に1分だけ、考える時間を」
「……いいだろう」

司はまぶたの裏に映る最後の映像をたどった。そしてから心の中で問いかける。



ねえ、お母さん。私、これでよかったんだよね?



兄を殺したことも、父を殺したことも、義理の姉や甥を殺したことも、クラスメートを殺したことも全部、これで良かったんだと、納得したかった。すでに死んだ母親に向かって問いかけるが、答えは無い。
「……。……くくっ……」
――神が偶像であるように、母親も偶像だった?
結局彼女は、彼女自身を肯定したくて母親を使っていたに過ぎない。そういうところが稚拙なのよ、と自分を否定した。
分かっていたのに、どうして。
敬愛していた母親が死んでから、本当に心の底からすがるものが何もなくて、死んだ母親にどうにかしてすがろうと必死になっていた。弱い自分、本当に殺したかったのは、私?それは、自分が迫害されたユダヤ人のように。
作っていたのは砂のお城。さらさらと、波に飲まれて崩れゆく。


笑えてくる。
何故だろう、笑えてきた。

「ははっ……あははははは!!」
いや、やはり訂正しておこう――司は母親が偶像であったことを否定した。少なくともそれが偶像であろうともなんであろうとも、彼女、母・美津子は人間としてちゃんと生きていた。不幸な星のもとに生まれ最悪な死に方をしたけれども。だが自分の人生すべてを賭けても、彼女の復讐を代行するだけの価値は彼女にあった。一般人には司がどれだけ母親を敬愛していたかなど、逆立ちしたって分からないだろう。
それでも笑いが込み上げてくるのは、死が案外あっさりしているからだ。壮絶な人生を送ってきたが、なんにしろ1本の太い紐と床を抜かすスイッチのボタンを押す指一本ですべて終わらせることが出来るのだ。最高の死に方は犯罪者には似合わない、という事か。司は笑いながらため息をついた。

戦争だったのだ。復讐をすることが、全て。そのためなら犠牲を厭わない。その戦争もこうして死を迎えることで終わった。
やりたいことはすべて終わったから。後は死ぬだけだ。もう、何も残されていない。
かのアドルフ・ヒトラーだって、死を持って戦争を終わらせた。
だからそう、これは司法による自殺。
死に場所を、与えられただけ。


「……ねえ、看守さん。私、化け物に見える?」
最期に、一度だけ聞いてみたい質問をした。

誰だったろうか、プログラム中に睨みを利かせて化け物、と叫んだ人間は。
ば……け……もの
……アンタは化け物よ!!
化け物はねぐらにすっこんでろ
思い出そうと思えば容易に思い出せるが、あえて思い出そうとはしなかった。

「……」
しかし看守は何も答えなかった。


つかさはかみさま?それともばけもの?
死刑判決をもらい、“やること”がなくなったときになってはじめて自分の人生を振り返ってみた。客観的に見てみれば神と呼べる部分はなく、それはまさしく血に飢えた化け物のように見えた。やることをすべて終わらせて空虚だったから、そう思えただけかもしれないが。だけど少なくとも、彼女は『死』を司った。化け物の業績にしては、偉大すぎるほどに。


彼女は大笑いをやめて、まぶたの裏に映った幻覚を睨んだ。
「ああ、それからひとつだけ頼みがあるの。私が死んだあと、骨は夏葉翔悟って人に回してね。先生には手紙で許可もらってるから」
「そのようだな。了解した」
祈りもせず、ただ骨の流す場所だけ指定して、司は寂しくまぶたの裏に映る幻を見つめた。
――終わった、全部、全部。
生まれてからの23年目。それは家族を殺してやると誓った時から9年経ち、プログラムで感情を抹消して8年、家族に等価的な罰を与えてから3年経っていた。やっと死ねる……このときばかりを夢に見続けた9年間――実に、長かった。
自分はプログラムで死ぬはずだったのを助かった。何かが自分を殺さなかった。それは「自分にはしなければならぬ仕事」があるのだと教えてくれた。例え神だろうが化け物だろうが、それが分からなくったっていたしかない。

あごを引いた。背筋を伸ばした。腹に力を入れ、足を奇麗にそろえた。天井を、仰いだ。


司。
幻聴が聞こえた。が、振り払った。……構わないで、私は天国でも地獄でもないところにいくんだから。

おかあ……さん?ほんとうに、おかあさんなの?

ごめんね、お母さんの所為だよね。ごめんね、ごめんね司。

ねえ、おかあさん!みて、つかさ、がんばったでしょ?
……どうしてないてるの?つかさがおかあさんのためにこんなにがんばったのに。
ねえ、おかあさん。つかさはつよいこでしょ?もうだいじょうぶだよ、おかあさんのしんぱいなんていらないよ。
つかさはね、おかあさんかなしませたくないよ。

変わらない、あの時と同じ姿。茶色身がかったロングヘアー、黒いヘアピンで前髪を留め、ロングスカートを好み、パステル調のカーディガンがよく似合ってるあの人は。
――幻聴でも幻覚でもなく、それは本当の――


「おかあさ――」


ガタンッ!!!
妙な音と共に床が抜け視界が一気に揺れたかと思いきや、太い紐が一瞬にして司の首を捕らえた。
彼女の細い体躯は一瞬にして底が抜けた床のほうへと下がり、肩までかかった髪の毛がその所為で逆立つ。
そしてその瞬間……司は刑場の露と消えた。

それはそう、ようやく掴みかけた、“彼女の存在理由が帰結する場所”もまた然り。



彼女は法の下に、死んだ。










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