晦冥*Parricide


先日の夕刻、遺産相続権を持つ親族が広間に集まって弁護人が父・修造から受けた伝言を発表した。内容は、いかにも弱肉強食の時代を生き抜いてきた父親らしいもので、“一番最後まで長く生きた人間に全財産を譲る”、という事だった。歳で考えれば一番有力なのはもちろん末っ子の洋介だが、何があるかわからない世の中だ。けれども上より3人の兄弟は妹である司に恨みを抱かれているため、殺されるかもしれないという恐怖心を今でも抱いているので、おそらく遺産は真人か洋介、もしくは晴一の嫁とその息子に当たる夏樹の誰かが受け継ぐこととなるのだろうと考えた。

2003年5月25日昼間。
まるっきり日曜日で明日から学校なのに、もう1日泊まると言ってせがむ真人や洋介、帰る足がまだ取れてないから、と言って居座るつもりの時哉を含め、まるで昔のように兄弟が一つ屋根の下に戻ってきた哀愁感はやはり否めない。そんな弟達は3人揃って近くのディスカウントショップに出かけた。ちなみに貴正は部屋に帰っていってしまった。
残った晴一はリビングでひとり、新聞を読みながらウイスキーをグラスに注いだ。父親の面倒を見るのも、家族が集まるというので夕食を手配したのも、弁護士の接待も、全部彼がこなした。何もかもの責任が長男に向いている生活に気疲れして、ようやく息抜きができたところで酒が出た。昨日の夕食の際に大量の酒が振舞われ、今日二日酔いを思わせる頭痛がするのに、彼が手にしたのはウイスキーだった。親父もこんな風にしてアルコール中毒になったのかもな、と寝室で大きないびきをかいて寝ている修造を思い浮かべた。
「晴一さん、またお酒?」
リビングのドアから夏樹が声をかけてきた。
「ダメじゃない。お義父さんみたいになるわよ?」
「ああ……そうだな」
夏樹の言葉にいまいち身の入らない生返事を返す晴一。久々にゆっくり寝たいと思うのだが、あいにく真人や洋介、時哉の若い衆が朝っぱらからばたばたしていたので、寝るにも寝れなかったのだ。もう中学、高校、いっぱしの社会人にもなるのにあいつらは――いつまでたっても永遠の悩みの種である弟達に、ついつい深いため息をついた。


ピーンポーン
インターフォンがなった。門のオートロックを解除したときに鳴る音とはまた違う音なので、来客があった証拠だ。晴一が立ち上がると横から夏樹ができて、「あたしが出るわ」と役目を横取りしたので、彼はもう一度ソファーに身を深々とおろした。
「誰?」
インターフォンで対応した夏樹に聞いた。
「宅急便みたい」
彼女はハンコを手に取るとパタパタとスリッパを鳴らして部屋から出て行った。そのショートヘアーに抑えられたつややかな黒髪がなびいた後ろ背を見送って、晴一はソファーの後ろに迫っている壁に頭をぶつけた。彼女は晴一の母親と違ってきちんと正門から出れる。正門のパスワードも知っている。あんな姿の母親を見て、そして殺した昔年の思いがあってか、晴一はなつきに普通の妻をやらせた。男尊女卑の思想は、この代で終わらせるつもりだった。
――頭痛がする。昨日あんなに馬鹿騒ぎしなきゃよかったな……と考えながら頭を抱えた。それ程飲んでいないはずなのだが、血は争えないらしい時哉と貴正がずいぶんザルで、付き合うだけで精一杯だった。しかも時哉が酒が入ると話し始めるタイプなので、夜中の3時ぐらいまで延々と晴一相手に話し続けた。それがすっかり今日になると忘れていて、女の事や金の事、就職難だという事を様々聞かされてげんなりしたのは結果的に晴一だけだったようだ。一方の貴正はすぐに寝てしまうタイプらしく、その場でぐっすり寝ていた。どんなに弟が叫ぼうが身動きひとつせず、それこそ死んだように眠っていた。神経の図太さもやはり父親に似たのだろうかとさえ考えてしまう。そんな自分は隅々まで気にする母親の性格に似たのだろうか。寒気がした。


「おとうさーん、あそぼ!」
彼の息子のがサッカーボールを抱えてリビングのドアを開けた。最近サッカーをするのも見るのも好きになってきた泰は、休みになると必ず父親をサッカーに連れ出す。さすがにもう幼稚園だから遊び盛りで、幼稚園から帰ってきてもずっと近くの公園で遊んでいた。エリート街道を歩んできた晴一はあまりサッカーを含むスポーツ全般が得意でなかったが、息子のためなら一肌脱ぐしかなかった。だがそれでも、ここ数日の気疲れと、昨日からの二日酔いと睡眠不足が重なって、とてもとてもそんなことが出来る体調ではなかった。
「ごめんなー泰。今日お父さんちょっと体調悪いから、洋ちゃんが帰ってきたら遊んでもらえ、な?」
もう中学3年になる洋介はあれでいてサッカー部だし、運動神経もいい。何より下に弟がいない末っ子なので泰を誰よりも可愛がっていた。奴が帰ってきたら遊ばせよう、と晴一はガンガンする頭で何とか考えた。

「えー、つまんなーい。洋ちゃんいつ帰ってくるの?」
ドアのところで文句をつけながら頬を膨らませる真似をする泰が小さい頃の洋介を思い出させた。こちらも血を争えないらしい。ちょうど洋介が泰ぐらいの歳に晴一は洋介ぐらいの歳だった。でも将来大きくなったら天真爛漫で感情の起伏が激しい(決して悪い意味ではないが)洋介よりも、成績優秀で責任感のある堅実な真人のようになって欲しいと思うのは父親だからだろうか。

「昼過ぎには帰ってくるんじゃないか? あれでもあいつは――」
3時からやるドラマの再放送見るから、それまでに帰ってくるって言ってたんだよな、と思い出したことを息子に伝えようとしたとき、泰の身体分開けられたドアの隙間の向こう、廊下に何かが走っていく姿が見えた。
単なる見間違いではない。
少し緑がかったその影は、吹き抜けのところから差してくる光でコケの色に見えた。幽霊を思わせるその一瞬の動きに、晴一は震え上がった。


「誰だ!」
唐突に大声を上げる。驚いたのは泰で、晴一の大声を聞いてサッカーボールを華奢な腕から落とした。


見間違いではないだろう。
晴一はつばをごくりと飲み込んだ。何の予告もなしに見た事のある、しかしここしばらくずっと見ていない姿を思い出し、ついさっき見た幽霊を思わせる動きに重ねてみた。ぴったりと一致する。
そう、絶対にあれは――長い髪の毛、あんなふうにして人のいるところを興味がないように足早に駆けていく姿。見覚えある、その仕草。わざとなんだ、きっとわざとそうしているんだ。俺にあえて正体を気付かせるためにやった――

だとしてもどうして?急に晴一の視界が真っ暗になった。彼は急いで立ち上がり、泰を抱きあげて廊下に出た。

「夏樹! 夏樹!?」
玄関に行ったはずの妻の姿がない。
「誰だ?! 誰かいるのか?!」
いくら貴正と似ているからと言って、見間違えるはずが無い。


ああ、あれは、確かに――


「ぐぉおおあああああ!!!」
獣が慟哭を挙げるような声がした。かなり大きい。この家に現在いるのは晴一、夏樹、泰、貴正、修造の5人だ。だがこの独特の低い声域は――
「父さん!?」
泰を抱いたまま無我夢中で階段を駆け上がった。2階の和室でいつも父親は酒を飲み、敷きっぱなしの布団に寝っころがっている。そう、今日もそうやっているはずだ。テレビを見てごろごろして、やけに膨れた腹を重そうにして。
頼む、頼むから嘘であってくれ!!あの影も、この声も、幻であってくれ!俺は夢を見ている、そう思ってても許されるだろ、なぁ?!

平和だったはずだった。4年も前の過去の話だと思っていた。しかし現実は残酷のそのもので、彼女の復讐という名の戦争が、4年の間を経て再び幕を開いてしまったのだ。周囲の目という屈辱と羞恥にさらされてきたはじめの1年。犯した罪への後悔と懺悔で満ちていた次の1年。忘却と前進を少しずつ覚えてきた3年目。幸福とありきたりな日常を思い出した4年目。そして今日……存在すら忘れかけていたはずの、罰が降りる日が来た。まさに、奈落の底への転落劇の開幕日が今日という日だったことになる。

運命なのか?それともただの偶然?こうして兄弟が集まった日を狙ったのは。
彼の知らないところで妻が情報を流していたことなど微塵も疑わない彼は、この最悪な偶然に冷や汗をかいた。

嘘だ。
嘘だ。
ありえない。
絶対に、そんなことは。
だって、
それなら、
なぜ、
今日?


「父さん!!」
開けっ放しになっていた父親の部屋に飛び込んだ。その瞬間、彼とその息子は壮絶な光景を目にすることとなる。晴一は棒立ち状態になり、こんな光景から息子の目を守ることすら忘れて立ちすくんだ。
目の前には白いスエット姿を朱に染め、身体中をずたずたに切りつけられて壁にはりつけにされている父・修造の姿があった。胸元から飛び出る一本の刀は、銀色の光沢の上から血の色を帯びて光る。切りつけられたときに出来たのだろう傷口からは、ぱっくりと裂けた筋肉が熟れたざくろのように飛び出ていた。その姿はまるで茨の冠をかぶり、十字架に貼り付けられたイエスキリストのようだった。さらには腕を広げた状態で掌をナイフで壁に打ち付けられて、あからさまにキリストの姿に似ていた。しかし、外傷はこちらのほうが酷いが。
「あ……ああ……あ……」
言葉も出ず、目の前に現れた偶像に釘付けになった。手から急に力が抜けて抱いていた泰が床に落とされ、彼が泣いて初めてはっと我に返った。

「ダメじゃない、子供はちゃんと抱いてなきゃ……」
どこからか現れたのか、突然”彼女”――蓮川司――が晴一の目の前に立った。

――司。

緑に近い宅急便の制服を着ていることからして、宅急便の名を語ってこの家に入ってきたのだろう。が、晴一はそれすら気付かず、ただ目の前に恐怖の対象が現れたことに恐怖を卓越したものを感じていた。

どうして?何でお前がここにいるんだ?どうやって……何故、どうして今頃。

「そう、あれがそんなにステキなの? 芸術的よね。あんなにダメで腐った大人が、イエスキリストと同じ格好で死ねるのよ? 幸せなことだと……そう思わない?」
全身のほぼ半分を返り血で赤く染めた司は、嫌味たっぷりにそう聞いてきた。顔についた赤がやけにリアルに光を反射する。鉄のにおいが晴一の鼻腔を突いた。


「ああ、この子が泰君? へえ……大きいねえ……」
床で泣きじゃくっている泰に向かってにやりと不器用に笑った。
「愛の結晶って、奴。笑っちゃうねぇー」
どこからか用意したのか、もう一本の刀を取り出して、その切っ先を泣き続ける泰に向けた。
「や……、め……ろ!! やめろ、やめてくれ! 泰は何もしてないだろ! お前は、俺だけ殺せばいいんだろ?」
「それはちょっと違う。私は別に、晴一君だけを殺したいわけじゃないんだから」
目を細めて口の端を吊り上げる。そうやって昔から人のことを嘲笑し続けてきた。覚えたのはプログラムで、それ以降ずっと、彼女の笑いはイコール嘲笑で結びついていた。しかし晴一はそれを知らない。司がこんなにも卑しく笑う姿など、見たことなかったからだ。

グシュッ……という鈍い音がした。
「あ……」
呆然とした晴一の表情が、彼自身の腹に突き立てられた刀に向けられた。深々とねじ込まれた刀に真紅の血が湧き出して濡れる。モスグリーンのタートルネックの服が徐々に黒く染まっていくのを、彼は見た。
「ああああああああああああ!!!!」
その刀が抜かれたとき、彼は足の力を失って床に仰向けに倒れた。絶叫も虚しく、広い蓮川家の敷地の中で消える。ドサッ、と倒れて床に背中をつけたとき、見下したまま笑う司の姿が視界いっぱいに広がった。赤い血のついた刀を手にしたまま、口を開く。

「ねえ晴一君、イタイ?」
にんまりと、満足げに、しかしまだ物足りないかのように彼女はナイフを取り出した。足で床に倒れたままの晴一の腕を蹴り、右の掌を仰向けにしたかと思うと、思いっきりそのナイフを掌に付きたてた。掌を貫通し、床に食い込んだそのナイフが非情にも真紅に静かに染まっていく。
「っ……ぐあああ!!」
もう一度、絶叫が轟く。間髪いれずに司はもう片方の手のひらにナイフを付きたてた。無経験の痛みを前にして断続的になっていく叫び声に、彼女は快感すら覚えたように微笑む。
「死んで楽になんてさせないわぁー。大丈夫。ま、だ、殺さない」


やがて次に司が手にしたのは、刀でもなくナイフでもなく、泰だった。彼女は泣きじゃくる甥っ子を無残にも蹴ると、ポケットから分厚い特殊なコーディングが施された手袋を取り出してそれからもうひとつ、何か細いテグスのようなものも取り出した。
「や……め……ろ、泰……だけ……は!!」
大量に失血して顔の色が青白くなっているにもかかわらず、晴一は床にはりつけされた形のまま頭だけ動かして泰と司のほうを見た。必死の命乞いも虚しく、司はテグスのようなもの――おそらくピアノ線だろう――を泰の首に巻きつけた。
「さぁ……泰君。実の親の前で……死ぬのよ……」
幾重にも巻きつけられたピアノ線が、泰の首に食い込んでいく。ごく小さな音を立ててピアノ線は首に食い込み、皮膚を割って血を流す。

「おと……う……さ」
締め付けられた声帯からかろうじて声を振り絞った泰は、目の前に同じく無残な姿で横たわる父親の晴一を見つめた。
「やめろ!! やめるんだ司!!」
「イ、ヤ、だ」
「冗談じゃねえよ!! おまえ……何のために……!!」
大声を張り上げるたび、まるで小人の国に迷い込んだガリバーのように床に打ち付けられた身体が動いてナイフがどんどん掌に開いた穴を広げていく。骨がきしむ音と、筋肉がこすれて断絶していく音が、彼の聴覚を占領した。

鈍い音がして音がしてピアノ線が泰の首周りの皮膚を引きちぎった。それから司は緩めていた力を一気に解放し、一気にピアノ線を引っ張った。子供の骨はまだ大人に比べると柔らかく、貧弱なものである。よって、首を切ることは、比較的容易かった。


「泰ぁああああ!!!!」
ごとりと転げ落ちた生首と晴一の視線がかち合う。見開かれたその目は血走っていて、まるでこの世のものとは思えないものを見たような表情をしていた。


「っ……くく……あはははははは!!! どぉ? サイッコーでしょ? 目の前で子供の首が落ちてさぁ、自分はなぁーんにも出来ないの。立ち上がることすら、ね。屈辱? 私のこと、恨んでる? ……どれにしても、笑える話だわぁー」
返り血にまみれて歪んだその表情を更に冷笑で歪ませて、司は晴一に顔を近づけた。長く伸びたその茶色の髪の毛がぴたりと晴一の頬にくっつく。

「これが、復讐。死ぬことよりももっと辛くて、もっと屈辱的なことを施すの。私とお母さんが受けてきたものを、返してやっただけだけどね!」
恍惚感からか、司は晴一が見たことも無いような人格になっていた。ここまで流暢に話している姿を見たこともなければ、こんなに笑っている姿も見たことが無い。恐怖ではなく、戦慄を覚えた。復讐心という名の種が、プログラムを経て芽を出し、この4年をかけてついに花を咲かせた。これが、復讐心が作り上げた化け物のなれ果てだという事は、彼の知る由ではないだろう。散るも美しきその花は、赤い花弁を持っていた。

「――ううん、返してやっただけじゃ物足りない……もっと、もっと苦しんで。ねえ、幸せだったでしょ? 子供もできて、何とか親から仕事受け継いで、私の存在すら忘れていた日常って。どう? そんな日常から一転、こうやって苦しみながら死んでいくのはさ!」
司は返事を寄越さない晴一をじっと見つめ、ふっと短く笑うとついにその懐から拳銃を取り出した。Cz75――その銃身に彫られた文字が光に反射して美しく輝く。


パンッ……

たった一発だけ、司は晴一の肺に向けて発砲した。その刹那、彼の体ががくんと跳ね上がり、落ちたかと思うとすぐさま血を口から吐き出した。にやりと司は笑うと、泰の生首をつかみ、横向きになっている晴一の目の前に堂々と置いた。
「じゃあね、晴一君。死ぬ前にお母さんに謝るの、忘れないでね」
満足したかのように彼女は腕を組み、深く息を吐いた。体の自由が利かず、なおかつ大量出血、そして肺への被弾は彼の身体を予想以上に痛めつけていた。それでも致命傷は肺に撃った一発の銃弾。即死ではない彼は、眼前にある息子の生首をぼやけて白くなりつつ視界に移しながら、生死の境目をさまよった。

やがて彼の意識は底をつく。
4年前、恐れていたのはもう少し楽なシチュエーションだった。痛めつけられ、なぶられ、ギリギリのところで生かされ、屈辱を味わい、懺悔することを必至とされたこんな状況を、誰が夢見ていたのか。どんなに悔やんでももう戻すことができない時計の針を、右周りに少しずらしてみたら、きっと横たわって微動だにしない囚人がそこにいるだろう。


――そんなに母さんが大事だったのか。
それは薄れゆく意識の中で、わずかに息を吹き返した思考回路がつむぎだした答え。


唯一の味方を幼い彼女から奪った罪への罰は、こうしてまず父親と長兄に下された。
二目と見れないほどの処刑方法で。




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