流布*Knell


2003年5月29日
梅雨が近いからか、空は灰色の雲と薄水色の空がストライプ状になっていて不思議な色合いを成している。立原町立第一中学校の職員室のちょうど眼下にテニスコートがあり、ソフトテニス部が歓声を上げて部活にいそしんでいるのが見えた。
新しい学年になって早1ヵ月半、部活に新しく入った中学1年生も少し慣れてきたようで、同じ行動を規律良く出来るようになってきた。そんな秩序ある部活風景を窓際の席から見て、夏葉翔悟は意味もなくため息をつく。俺も、もう歳くったかね――4月生まれの彼ももう34歳になり、生徒からも『三十路! 三十路!』といわれからかわれている。若々しい中学生達の青春のひとコマを職員室のベランダから見下ろしつつ、タバコの箱に手を差し伸べた。
このたびプログラム担当教官の職を一旦保留して、正式に教員免許を取り直してちゃんとした教員になった彼は、以前非常勤として勤めていた高原市の隣にある立原町に赴任してきた。ちなみに担当教官の件は保留なので、別にいつでも戻れる。
今は2年生の担任を持ち、教科は社会の歴史を教えている。前ほど放置主義は徹底しなくなったが、どこかそれの面影を残している彼の教育方針は否めない。
部活動の顧問もやっていないので、生徒達が部活をやっている時間帯でも自分の仕事を好きに出来る。帰ろうと思えばすぐに帰宅できるのだが、いかんせん本日生徒に提出させた自習プリントのチェックをしなければならない。家に帰ればまた小学生になる娘と息子が笑顔を浮かべて待っているはずだが、夏葉は涙を飲んで諦めた。

ちょうどタバコも4本目となる。生徒の健康と全体的な風紀を考えて喫煙は隠れてコソコソやらなければならないのだが、それでも夏葉は喫煙をやめなかった。愛用の携帯灰皿をポケットから出し、それから腕までまくっているパーカーのジッパーをさげてパタパタと空気を入れ替えた。もうすぐ雨が降るのだろうか、やけにじめじめしていて蒸し暑い。空は曇っているが雨は降りそうにない。今日は早く帰るか、一呼吸置いてからタバコの煙を肺に入れた。


ブブブブ……ブブブブ……
「うおっ」
突然の上においてある携帯電話が震え始めたので(着信は全てバイブレーションに設定してあったのだ)、驚いた夏葉は慌ててまだ少ししか吸ってないタバコを勿体なさそうにもみ消した。携帯電話を手に取り、二つ折りを開く。画面には『青沼 聖』という文字が並んでいた。長い間会っていないわけではないが、それ程頻繁に会うこともそうは無いこの成年は、もう28歳になる。夏葉と共にプログラムの担当教官を請け負ってから4年、彼は独立し、立派なプログラム担当教官になった。一応恩師である夏葉翔悟にはことあるごとに電話をかけてきては世間話を繰り広げる。そういう大人になっていた。未だに身長が170にも満たないその小さな体躯と目を細めて笑う表情を思い出しつつ、彼は電話の通話ボタンを押した。

『もしもし夏葉サンっすか? 今日の夕刊見たっすか?!』
耳に携帯電話を押し付けるなり、夏葉が何かをいう前にぶしつけな青沼の声が聞こえてきた。
「んだコラ、てめえいきなり電話かけてきやがってそれか? 喧嘩売ってんのかぶっ殺すぞ。俺はなぁ、早く家に帰りたいけどガキどものプリントに目を通さなきゃならない使命背負ってるんだよ! お前またあれか、わかんないから助けてコールだろ。お前あれから4年も経つんだぞ? いい加減俺頼るのやめろよな! あ、飲み会の誘いなら喜んで承りますが」
『違うっすよ何考えてるンすか! ってか今どこにいます? もしかして学校? だったら早く家帰ってくださいっす! でもって夕刊見てくださいっす!』
30にも近づいてきたのに一行に治る気配のないその微妙な敬語も懐かしいといえば懐かしいが、耳障りでもあった。
「うるせーな、夕刊がどうしたんだよ……」
『あの、ほら覚えてるっすか……? 俺たちが一緒にプログラムやった最後のときの優勝者の蓮川司さん……あの人、全国的に指名手配されてるっすよ!』

「ハァ?! 指名手配?!」
驚きのあまり机をバンと強く叩いてしまった夏葉は、周りの教師から訝しがられた。その怪しげな視線に気付いた彼は肩をすくめ、目でお辞儀をしながら会話を続ける。


「どういう事だ? 50字以上60字以内で簡潔に説明しろ」
これは早く家に帰って夕刊を見なきゃならないな……と考え付いた夏葉は、携帯電話を耳と肩に器用にはさんで丸つけの最中だったプリントの束を重ねてバッグにしまった。業務用のものすべてをかばんの中にそのまま入れると、業務終了時刻の5時を過ぎていることを確認し、職員室の扉まで駆けて行った。
「無理っすよ!! えーっと……どうやら高原市で一家惨殺事件が起こりまして、それの犯人として蓮川さんが指名手配されてるっす。指名手配されてるってことはまず間違いなく……犯人なんでしょうね……警察もそんな馬鹿じゃないっすから……」
「……」
『夏葉サン?』
「あ、悪い。考えてた。んで、殺されたのは具体的に誰だ?」
『えっと、えっと……あ、あった。父親の蓮川修造さん、長男の晴一さん、次男の貴正さん、三男の……トキヤって読むんすかね。とりあえず時哉さん。四男の真人さん、五男の洋介さん。それから長男の妻の夏樹さん、息子の泰君っす』
「それで……あのガキんちょ以外は全員死んでるってわけか?」
『そうみたいっすね。蓮川さんの行方も分からないって新聞に書いてありますし……』
職員玄関で靴に履き替え、ドアを開ける。玄関前に開けた駐車場では剣道部が威勢良く竹刀を振り下ろして、夏葉を見ては礼儀正しく「こんちゃーっす!!」と挨拶してきたが、夏葉はほとんど無視をして車まで走っていった。


「あいつ……やりやがったな」
愛車のダークブルーのキューブコンパクトに鍵を刺し、ロックを開けながらボソリとつぶやいた。
『蓮川さん……一体どうしちゃったんすか?』
「……さあな。……これよぉ、さすがにお前覚えてないと思うけどさぁ。あのガキが化けるだけの要素は揃ってるって俺、プログラム中にお前に言ったんだよな。……ついに化けちまったよ、あのガキ」
4年のブランクを明けてついに動き出した化け物。さながら羽化するかのように4年間繭に閉じこもっていたとでも言うのだろうか。出てきたのは立派な蛾の化け物、というのは実に皮肉だ。彼は車のエンジンをかけ、いつもよりスピードを上げて帰路に着く。そういえば彼女は、彼女のしたこと全てに意味があり、無駄なものは何ひとつないと豪語していたことをふと思い出した。
――なぜ、どうして?
『化けたって……』
「アドルフ・ヒトラーだって、ついには狂ったんだぜ」
『ユダヤ人殲滅……彼女の目的っすか? ユダヤ人はクラスメートだけじゃなかったってことっすか?』
――何のために?
「わかんねえな……。そうだ青沼、お前暇なら明日からのワイドショー出来るだけビデオにとってくれ」
『ええ?! どれだけの番組がこれ取り上げると思ってるんすか?! もうこれ持ち上げないワイドショーなんて無いっすよ!! だいたいまともなビデオだってオレんち無いのに! 夏葉サンちもビデオとってくださいよー』
「悪いな、全部やれ」電話の向こうで聞こえてくる愚痴には命令口調で終止符を打った。


『……』
「どうした?」今度はマシンガントークもいいところの青沼が黙り込んだので、不審に思って聞き返した。
『プログラムといい、卒業式といい、今回のことといい……やっぱオレが持ちかけたのも悪いんすけど、やっぱり夏葉サンって蓮川サンに入れ込みすぎなんじゃないっすか?』
1人の生徒に固執するなというのはプログラム担当教官だけではなく、それは教師として当たり前のことだと、夏葉はいつも青沼に言ってきた。きっとそう言われていた青沼には、夏葉の執拗なまでの司への入れ込みぶりは異質に見えたのだろう。
夏葉はしばらく黙ったあと、口を開いた。
「青沼ァ、何で俺が中学の教師やってるか知ってっか?」
『え? さあ……知らないっすねえ。聞いたことないっす』
「俺はなあ、こんな野郎でも“人間の成長”を見るのが好きなんだよ。特に中学生っていうのはな、その成長が一番顕著で著しいからだ。蓮川はな、ものすごいスピードで生きてるんだよ。あいつの成長が……俺にとっちゃ一番興味がある対象だ。でもまあ、まさかこんなもんになるとは正直驚いたな。一国を騒然とさせる一家惨殺の指名手配犯になるとはよ」


司が中学2年生のときに少年院に一時的に放り込まれていたこともありありと思い出せる。彼女についての詳しいことは家の書斎にしまってある資料が一番よく知っているはずだ。別に苦労して調べなくても後は週刊誌の記者が勝手に調べてくれるだろう。彼女がなぜ、こんなことをやらかしたのかという事もひっくるめてすべてだ。プログラム中ひっかかっていた些細な謎や、プログラム終了後彼女がぼやいていた不可解な言葉の意味もすべて解明されるかもしれない。夏葉にとってこれらは一種の謎解きに近かった。
ここまできたらずっと付き合ってやろうじゃねえか……とことんお前が考えてたことしらみつぶしにしてやる。夏葉はハンドルを握る手に力を込めた。
私は、アドルフ・ヒトラーの生まれ変わり。滅ぼすべきはユダヤ人。
忘れていた4年前の記憶の中に、そんな言葉があったように思える。

――お前は一体、何を考えてるんだ?


「なあ、青沼」
本来なら携帯電話を使用しながらの運転は法律で禁止されている。それでも今、どうしても聞いておきたかった質問を青沼に問いかけた。
「蓮川よぉ、捕まったら……」問いかけしたのは当の本人だが、それ以上は言わなかった。

『ええ……まだ詳しい現場の状況は分からないすけど、まず間違いなく、死刑でしょうね』
赤信号だったので車のブレーキをゆるくかけ、停車ラインで車を停めた。横断歩道を横切る女子中学生の姿がある。たった1人で横断歩道を渡った。ちらり、夏葉のほうを向く。
その女子生徒が蓮川司に見えたのは、きっとただの思い違いだろう。



               


2003年7月2日
蓮川家の惨殺が流布され、蓮川司が犯人とほぼ断定されて指名手配されたという報道から大体1ヶ月がたった。
本格的に夏に近づいてきて、かなり暑い。しかも期末試験が終了し、今度は成績処理をしなければならないために2年生の歴史を担当する夏葉翔悟もかなり忙しい日々におわれていた。それでなくても日々授業の構成を組み立てなければならないのに、と独り言をつぶやきながらも、流れてきた額の汗をタオルでぬぐう。田舎の中学校のために職員室にはクーラーは無く、唯一ある冷房器具が巨大扇風機と言うものだから世も末だ。高原第五中学校に勤めていたときはクーラーが入っていたのに、と市別での格差を肌で感じざるを得なかった彼は、小さく舌打ちをした。イライラするのと暑いのとで集中力が累乗の勢いでそがれていく。
その失われた集中力を取り戻すために、彼はバッグから一冊の週刊誌を取り出し、はじめのページをめくった。大きな文字で『高原一家惨殺事件スクープ写真!!』と題されたグラビア写真が載っている。ペラリとページをめくった。

この一ヶ月ほどで大体おおむねの情報は収集できた。夏葉が買い集めた週刊誌では、ほとんどが似たり寄ったりの内容を示していたが、それでも夏葉の知らないことばかりが揃っていて、もはや犯人であろう蓮川司や、殺害された蓮川一家の仮定状況などが赤裸々に書かれていた。事件後一番初めの週の週刊誌は内容の半分ほどがそのスクープで埋まるほどだ。かなり調べ甲斐があったのだろう。しかも、犯人はプログラム経験者ときている。優勝者が犯罪者になる――それはもはやプログラムの存在自体が危ぶまれる事件となりそうだ。こういったことは政府によって揉み消されそうな心配がある。
それら週刊誌の情報と、青沼が録画してくれたワイドショーのログ、加えてプログラムの音声記録のバックアップデータおよび調書を掛け合わせて、情報を編み上げた。

夏葉翔悟が知っていた蓮川司についての情報は、せいぜい彼女の性格と少年院に収められていたこと。なぜ少年院に服役していたのかという理由などは一切分からなかった。それがここ一ヶ月の週刊誌を見てようやく理解できた。

蓮川家は殺害された修造が一家を取り仕切るようになって以来、ずっと妻の美津子と娘の司は肩身狭い思いをしてきたそうだ。
美津子と司が表門から家に入る姿を界隈の人々は一度も見たことが無いようだ。
こちらはプログラムの音声から拾った情報だが、数度母親を呼ぶ声が記録されている。そのことから判断して母親を尊重していたことが分かる。

父親はアルコール中毒を警告されているほどの酒飲みだったようだ。
長男はそんな異常な一家を切り盛りする神経質な人間だったようだ。
次男は外に顔をみせたことはほとんど無い引きこもりだったようだ。
三男は明るく活発で行動力もあり、喜怒哀楽が激しい人間だったようだ。
四男はしっかりもので正義感が強く、極めて優秀な人間だったようだ。
五男は天真爛漫でいつもニコニコと笑っていて、隔てを知らない人間だったようだ。

兄たちの級友の話では、妹がいたなんていう事は初耳ようだ。
弟達の級友の話では、姉が可哀相だといつもぼやいていたようだ。
蓮川司の級友の話では、弟はいると知っていたが兄がいるとは知らなかったようだ。
少年院に収められた理由はこうだ。母親が持病の心臓病を家で悪化させ、救急車を予防とした際に父にあしらわれ、逆上して父親の腹を出刃包丁で刺して殺害しようとした。

どこから聞いてきたのか、プログラムで15人殺害したこともしっかり書いてあった。
彼女がプログラム後、何食わぬ顔で血まみれの姿のまま卒業式に出てきたことも書いてあった。
とある週刊誌では、その血まみれの制服姿の蓮川司の写真が載っていた。
蓮川司が指名手配されていることも無論しっかり書いてあった。
中学卒業後、宮崎に強制転校した後の足跡を追っている週刊誌もあった。
高校は中退し(そういえば高校の手配は夏葉自身が行った記憶が彼にはある。人の苦労を水の泡にしやがってと彼は舌打ちした)、マンションで生活していたようだ。

すべて雑誌から取り入れた話だから、嘘か真かはいまいち信用できないが。


一体どれが本物の彼女だったのだろうか。血のつながった人間に疎外され、すがるものが少なかった彼女と……アドルフ・ヒトラーの名声を自分に押し付け、より強くなろうとして理性を壊した彼女と……人殺しの表情の上に不器用な笑顔を並べて、どうにか生きていた彼女。
夏葉は考えた。
彼女が蓮川家を憎んでいたことは国語の読解能力が乏しいど素人でももちろん読み取れる。プログラムを優勝してでも成し得たかったユダヤ人抹殺――それは自分の家族をこの世から消してしまうことだったのか?――はついに果たされたという事か。
だとしたら彼女にとってのプログラムの存在価値は?……肉親を殺してもなんとも思わない自分を作り、人を殺す感覚を身につけるためのもの。
彼女の“本当の”目的は、プログラム優勝ではなく、家族の抹殺。
――だとしたらどうして家族全員を?何のために。あいつに、何があったって言うんだ。
謎が謎を呼び、夏葉がこれらの問題を全て解決するにはまだまだ時間が要すようだった。

彼が知らないキーワードがある。長男、次男、三男が司の味方であった母親を殺害したこと。
これが欠如している上では、彼は永遠に彼女の“答え”にたどり着くことはできない。


集中力を呼ぶどころかかえってイライラしてきたので、定刻を過ぎていることだし家に帰るかと重い腰を持ち上げた夏葉。成績処理中のノートパソコンをバッグにしまい、チャックを閉めた。殺伐とした机の上を適当に整えて彼は今日も帰路に着く。
体育館の使用のローテーションのため今日はバレー部が外で練習している。お世辞にも強い部活とは言えないが、人数ばかりが無駄にいて、駐車場のほとんどを男女バレー部で埋め尽くしている。邪魔だな、こいつら。セミが鳴き、夕方だというのに真夏の日差しがガンガン降り注ぐ夏日。彼は不健康そうな目をギョロっと動かし、バレー部を一瞥した。

今日も変らずダークブルーの色を光らせている愛車のエンジンをかけ、座席に座る。濃い目の色なので日光をさんさんと吸収していて、車内温度はかなり高い。窓を開けてクーラーを最大にかけ、とりあえず車内の暑い空気を外に押し出した。
『次のニュースです』
かけっぱなしのラジオがエンジンをつけると共に音を流す。確か朝は音楽番組を聞いてきたはずなのだが、今はちょうどニュースの時間か、と特に気にも留めなかったが。


『本日正午過ぎ、先月起きた高原一家殺害事件の犯人と思われる蓮川司容疑者が、宮崎県南部の都築市で逮捕されました――』


ブオオオオと勢いよく吐き出される冷風を肌に感じているからか、はたまたもっと別の理由があるあらか、彼は身体中に悪寒が走ると共に絶句した。
「蓮川が……逮捕されただと……?」
開ききった毛穴から、汗が噴き出して、それが冷風に当たったため気化熱により身体の温度が一気に下げられた。





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